ついに最後のケアする対象を失いました。先週、飼い鳥のセキセイインコがなくなったのです。前回のブログで退院の喜びをつづったのもつかの間、再入院とともに今回は退院できずに逝ってしまいました。愛するものを失った寂寥感とともに、私が得たものは解放感。人間を対象にすると必ず言葉を飾るテーマですが、ペットなら書くことを許してもらえるでしょう。
介護、あるいはケアをする存在でいることは辛いものです。気にかける対象は少なければ少ないほど人は煩わされません。そのためには特定の人と親密な関係を持たず、子どもなど持たなければいい。ましてペットなど飼うことは言語道断なのでしょう。ケアが必要なことはすべて予見されることなのですから。たとえ子どもたちにペットのいる生活を味あわせてあげたいという願望であっても。そういうものを切り捨てられなかったところが私という人間の生き方に現れた甘さです。もちろんそのことを誇りに思っていますが。
家族でたくさんの笑いと泣きを共有させてもらえました。昨年子どもが2人とも離家し、残ったペットの彼女には本当にお世話になった気がしています。家族の事情を小さな肩に背負って重荷に感じた1年だったのかもしれません。そのことが寿命を縮めてしまったのではないかとほんとうに申し訳なく思います。
ペットの介護に多大なお金と時間を使っている人が、世の中にはたくさんいます。私はその足下にも及びません。けれども、彼女が病気になればその間心配し、常に緊張していたのだと今になって気づきます。なぜなら、彼女の死後、私は悲しさとともに安心感を覚え、ああ、もう朝から晩まで彼女の様子を気にかけなくても大丈夫なんだと思いすっかり気が緩んだから。気が緩むと自分の体調が悪くなります。自分が病気になっても困らなさそうなとき、人は弱るのかもしれません。少なくとも、私はいつもそうですね。
ケアラーとして生きてしまうことは、辛いけれど幸せなことなのでしょう。十分に世話をしたという充実感が寂寥感をじきに超えてくれると信じて、一日一日を過ごしていくしかありませんね。そして、これからの半生でたくさん出会うだろう愛する人たちを失う寂寥感を、少しだけ前倒しで教えてくれた彼女に、心からの感謝を捧げます。