映画:母なる証明

 ちょっと気になっていた映画だったのですべりこみで見られてよかった。日曜の午前中にみる映画じゃないかもしれないが、しっかり味わえた。最近読んだ『「縮み」思考の日本人』とあわせて、つい日本vs韓国文化の文脈で見てしまったかも。
 息子を溺愛する程度でいったら、日本は韓国に及ばないと思った。だいたいこの映画は韓国では300万人動員を超える大ヒット。ミステリーだからってここまで母と息子がヤバイ関係の映画は、日本人向けには生々しすぎる。オモニ(オンマ)が特別な存在である韓国を感じさせられた。母の狂気は最後まで誰も妨げることができない。もしこれを純粋な母の愛、と語るとしたら怖すぎる。
 そこかしこに散りばめられる社会悪。貧しさと不良仲間、警察は自白を強要するし、弁護士は美女を侍らせて貧乏人から金を吸い上げる。公務員の不正は日常である。女子高校生は携帯を改造し、家族の生活のために売春(援助交際)をする。暮らしかたの貧しさゆえ、数十年前にいるかのような時代感覚におそわれるが、携帯電話という小道具が差し込まれることで、見る側は現代へと連れ戻される。
 誰もがいうように映画の構成は見事である。張られた伏線は少しずつ束ねられて息を呑むラストへと向かう。暗い雨が続く映像は陰鬱な雰囲気をいやというほど感じさせてくれる。ものうげな音楽も、これしかない、と思えるほどはまっている。それでもカンヌ映画祭の「ある視点」部門で受賞できないのはなぜだろうか。「トウキョウソナタ」にあって「母なる証明」にないもの。それは、正義が家族を超えて社会にあるかもしれない、といううっすらとした予感である。正義は母と子の関係に割って入ることができない。日本映画だとこの終わりかたにはできなかったように感じた。
 時として狂気が出現することは避けられず、人に侮辱されたままでいることは許され難いといった激しい感情を共有できるからこそ、この映画は韓国で大ヒットできたはずだ。残念ながらカンヌに集う人々の心性は、もう少し敷居が高いものだった。一方「母なる証明」は、南米の著名な映画祭で受賞が決まった。血と激情のほとばしる映像は、確かに彼の地と相性が良さそうだ。
 
 

高速道路の無料化と公共交通

JR各社が高速道路の無料化への反対を鮮明にしている。すでに1000円になった段階で死活問題になっている公共交通が続出中のようだ。最近、悲鳴があがっている地域の1つ、四国を訪れる機会があったので、この問題をいやおうなく考えてしまった。
季節のよい日、休日なのにJRに乗車すると確かに電車はガラガラ。降りてタクシーに乗れば運転手さんは客の少なさをぼやいてばかり。バスに乗れば大半の行程で専属運転手さんになっていただいて恐縮してしまった。公共交通機関がじり貧になっている実態を目の当たりにした。ところが、観光地に行くと遠方から自動車で乗り付ける客は結構いる。やはり人はみんな自動車で移動しているのだ。自分がまるで奇人変人になったかのような気分になってしまう。
私は自動車を所有していない。同居人もあまり自動車での移動は好きではないので、レンタカーも借りずに電車やバスで移動していたわけだが、これが結構大変なのも確か。実際、四国の公共交通は高い。事前にお得なチケットを探してみたが、ほどよい値段の周遊チケットはないことがわかった。四国内で安く周遊できるJR券を買うためには、途中全部を鉄道で移動して入らなければならない。大阪から淡路島経由で鳴門に移動したので、途中に高速バス(JRなのに)が入ったら、もうダメなわけ。なんという使い勝手の悪さ!これじゃよほどの熱意を持っている人でないとJRに乗ろうって気も失せると思う。しかたがなく乗ったけれど、散在することになった。
一番驚いたのは、たった1時間程度の場所に行くのにも、事実上特急の選択肢しかない時間帯が長いこと。そうするとちょっと足を伸ばすだけなのに、倍の運賃が必要になる。学生だっているだろうに、安く移動できない仕組みになっている。それに接続がとにかく悪い。松山から今治を通って「しまなみ街道」に行こうと思うと、高速バスとの接続はなぜか数分後れ。それほどマイナーな行程とは思えないのに。四国は観光地として著名なところなのだから、もう少しいろんな工夫があるかと期待していた。公共交通中心で回ろうという客に、手を差し伸べてくれてもいいのでは。
日本航空の様子をみていても思うけれど、結局ほぼ独占してやってきた企業は親方日の丸体質から抜けられないのかな。とにかく日本の飛行機や電車はすごく高く感じる。新幹線だって、客が減ってるっていうけど、あれだけ高かったら普通の人はそうそう乗れない。会社から費用が出るビジネスマンはともかく。私のように高速バスに乗る人が増えているのも当然だと思う。競合相手がいるくらいの方が、少し運賃値下げする機運も出てくるのでは、と期待している。
電車はエコかもしれないけれどお金がないと乗れない。お金持ちでなくても移動する自由を手にできる高速道路無料化はやはり必要だろう。そのかわり、二酸化炭素があまり増えないようにするには、ちゃんとガソリンに炭素税をかけてその分が鉄道利用者に回るような仕組みを作ればいい。その前に、JRは自動車か鉄道か少し迷っている人を鉄道に引っ張ってくるような商売のしかたをもっと考えてほしい。
そうそう、名古屋の市営地下鉄は近年乗客が増えて黒字化したらしいけれど、土日祝日の1日券に、いろんなスポットの入場券が割引になる特典をつけて「でら得」と宣伝してた(名古屋弁で、「どえりゃー得」の省略形)。これはなかなかいい企画だと思う。高松のレンタサイクルシステムはすばらしかったし、松山の伊予鉄は信じられないほど安くてサービスがよい。道後温泉というドル箱があるからといっても、やっぱりJRさんとは経営のしかたに差が感じられる。
JR様、政府に嘆願するまえにもう少しできることはあるんじゃないですか。

最近読んだ本:ブラック・スワン

ふところの寂しい私が新刊で流行の単行本を買うのは意外に稀。以前雑誌のインタビュー記事を読んでとても興味をそそられたN.N.タレブの本。やっと読みました。感想を一言でいえば、ともかく経済学者でなくてよかった〜(笑)。しかし彼が自分をさしていう「懐疑的実証主義者」って、べつにフツーじゃんという気もしたりしたけど。タレブが批判する経済学に置かれたたくさんの仮定を、「え?それは無理だろう」って思って生きてきた結果、社会学者しているわけですから。
これまで「権威ある人が信じてきたであろう」事象を悉く爽快にぶった切ってくれる。こういう内容に耳を傾けてもらうためには、これだけの知性と博識をもってしないといけない。脱帽いたします。もちろんそれだけではダメで、経済が突如危機に瀕するこのような事態が「まぐれ」に起きたために、こうやって世界各国で翻訳されて売れている。彼は予言をするつもりはないとあれだけ言いながらも、結果的には予言者の地位に祭り上げられている。そういう星のもとにある人なんでしょうね。それにしてもアメリカというのは懐が深く一筋縄ではいかない社会です。タレブのような人が流れ着いて識者を批判しようと、彼を受け入れたアメリカ社会のシステム自体は結局批判されずに済むわけですから。
タレブの主張がすんなりと腑に落ちてしまうので少々気になりました。東洋的な感覚に訴えられる時に生じがちな危険な兆候です。日本人ってそもそもそんなに世界が予測通り線形に動いていると思っていないでしょう。いつ巨大地震がくるともしれない、台風がやってくる、原発が事故を起こすかも、など起こる確率は小さくても起こったら重大なことに身構えている、というタレブ推奨の態度はあんまり目新しくありません。だいたい普段から、あまり確率論的に物事を決めたり判断したりしていない社会でしょう。
同じ内容の書物が社会によって違う受け止められかたをすることがよくあります。ベル型カーブ(正規分布)や統計に基づいた意思決定が隅々まで席巻している社会では、彼の議論はとても実際的で役に立つかもしれない。しかし、最近ようやくそういう意識が浸透し始めた(日本のような)社会では、むしろ逆の影響を与えるかもしれません。そこが少々心配です。私もベル型カーブを使って仕事をする研究者の1人ですが、はなから学びもせずに「そんなの役に立たないんでしょ」っていう人が増えると困るからです。ちなみにタレブは事象によって、役に立つ時とそうでない時を使い分けているのですが、そこのところは強調されていないから、読み飛ばされるでしょう。
最近の世界では、学者をたたくのが流行っているのかもしれませんね。日本ではどちらかというと官僚たたきの方に人気があります。学者はたたくほどにも目に入らない存在なのかもしれません。そのくらいでちょうどいい、かな。





「バラマキ」考

もうじき選挙ですね。公示されて外が選挙カーで騒々しくなりました。このところずっとひっかかってる言葉は「バラマキ」です。きょうもニュースをつけると総理が熱心にバラマキ批判をしておりました。私も子どもの頃からずっと「バラマキ」にマスメディアから悪いイメージを植え付けられてきたのですが、相変わらずの語感で使われていますね。学問をして「政治とはそもそもバラまくことじゃないのか」と腑に落ちてしまったせいか、バラマキ批判の連呼が耳障りでしょうがありません。ポランニーによると人間がずっとやってきた経済交換には市場、互酬、再分配の3つがあります。政府のおもな役割はもちろん集めてバラまく再分配でしょ。問題はバラまきかたの善し悪しであって、どれほど原始的な社会でも、集めてバラまく人たちがその社会を統治する。うまくバラまけなくなったら、統治者は倒されるのが道理。民主党もはっきり言い返せばいいのに。「いままで与党がバラまいていたところにバラまくのをやめて、他のところにバラまくことにするんだ」って。血はどこかで流されるんですから。
今回の選挙には家族政策にかかわる争点が表舞台に登場してうれしく思います。ずっと個人的には主張していたことですが、じつは民主党と自民党には横たわっているジェンダー・家族観にこそ大きな差があります。それがずっと隠されたままでした。互いに争点にしてもあまり票にならないと踏んでいたからかもしれません。実際子ども手当が目当てで投票する人は、割合にすると意外に小さいはず。15歳未満人口割合はすでに13.5%まで低下しています。65歳以上が22%ですから、老人票を当て込むならあんまりよい主張ではありません。農業人口も数%にすぎないので戸別補償もたいした票にはならないでしょう。世論調査でも関心がある問題の上位にはかならず年金・社会保障がきます。
結局今回の民主党の公約は、政策の方向転換を象徴するにすぎません。どう変えるのかというと、いろんな側面でOECDで普通程度の福祉国家にしていこうということでしょう。いま現在、家族・教育関係の予算はあらゆる指標でOECD「最低レベル」なのですから。子どもの貧困には、再分配が「逆機能」を持っていることも指摘されています。子どものいない専業主婦世帯に税や年金の恩恵を与えているのに、親が通常働いているひとり親世帯に十分な分配がなされないからです。お金の流れがふつうと逆ってことです。配偶者控除廃止などはだいたい20年前にヨーロッパでは終わった話。目新しい変化ではないのですが、日本は化石状態の家族制度が持続しているので、それなりにインパクトがあるでしょう。
とにかくもうすこし子どもがいる人にバラまくのは当然の政策。それなのに子育て中の人たちの声で、「そんなにもらっていいのかな」みたいな慎重な意見も聞こえてきます。なんと奥ゆかしい日本人の親たち。そうやって子育ては自分たちの仕事!と抱え込んで気負うからこそ少子化しているのですが。ちなみにどう控えめにみても、幼い子を持つ人には月4〜5万円の直接支援があってよいと私は(本で)主張しています。
バラマキには直接政府が個人にまくやりかたと、企業や様々な団体など中間組織を通じて行うやりかたがあります。長年中間組織による分配を信用してきた日本人もついに疑心暗鬼になってしまいました。どっかに消えているんじゃないの?ってことでしょう。いざなぎ越えの景気回復とやらがあったのに、みんな豊かになった気がしなかったんだからあたりまえですよね。どこかにうまい汁を吸った人はいるはずです。それなのに相変わらず「景気回復」すればみんなまた豊かになれる、という主張を繰り返すことができる与党。すごい鈍さですね。家族もこれまでのような「夫」を通じての分配では不安だらけですから。夫を飛ばして子どもにダイレクトに「手当」を届けることにもかなり意味があります。
ああしかし、悲しいことに大学や研究といった問題はあまりマニフェストに書かれていない。モノづくり社会一辺倒に先が見えてきたのだから、そこのところにもう少しバラまいてもらわないと。ここにもOECD最低水準がありますよ、といいたい。じゃあ何が最高水準かって、それはもちろん公共事業。

「扉をたたく人」:The visitor をみて

学期がようやく終わりに近づいてきて、本当に久しぶりの週末らしい生活。西川美和の「ディア・ドクター」かどちらにしようかな、と少々迷いながらも「扉をたたく人」を見にいった。よかった!見逃さなくて。心に深く染み入る映画だった。見る前に思っていたよりも相当にシリアスな内容で、9.11のあとの内省するアメリカ社会を強く感じさせられた。ベトナム戦争のあとにも無数に生み出された芸術作品群があった。ハリウッドや西部劇の世界とはちがうもう1つのアメリカが蘇っている。この奥深さがある限りアメリカは当分のあいだ人の心をとらえつづけるに違いない。
それにしても、ジャンベという打楽器には独特の魅力がある。かつて人がうらやむ高学歴を持つ優秀な同僚が職業をあっさりと捨て、アフリカンドラムの世界に入っていったことがある。そんな体験とシンクロしながら見てしまった。映画の設定では、高齢の経済学教授がクラッシックのピアノからジャンベを通じてアフロビートの世界へとはまっていく。彼は心から楽しそうにジャンベをたたくうちに、心そのものも柔らかくなっていく。私は音楽に魂を揺さぶられるという経験を信じている。この映画の生命線は、音楽をきっかけにした急激な人間の変化というストーリーがとても現実的に描かれているところにある。
じつは、この映画は大学業界に生きる人々にとっては身につまされる場面をたくさん含んでいる。経済学へのアイロニー(社会学でないのがせめてもの幸い!)研究と現実の世界との距離感など、じつは容赦のない批判が浴びせられている。自分がどちらの側に立っているのかによって、楽しめる人とそうでない人がいるだろう。社会の中枢を担うエスタブリッシュの人々には手厳しい映画かもしれない。
映画は自分の立ち位置をさりげなく思い出させてくれる。私が感情移入できる作品を振り返ると、結局「クラッシックよりはアフロビート」なものを選んでいることに気づく。そろそろ、中途半端にでなく素の立ち位置をはっきりさせた人生を歩まなくては。


温暖化中期目標の憂鬱

さすがに日本人であることを恥ずかしく思った。首相が二酸化炭素90年比8%減の低い目標を、05年比15%といいかえて「野心的」な目標を設定したと最悪のタイミングで発表してしまったことに、である。いま、ボンで開かれている次なる議定書へ向けた会合で「弱い」目標を印象的にアピールしてしまった。この12年間京都議定書として気候変動をめぐる政策を主導してきたことになっていた日本という国家へのわずかに残っていたかもしれない信頼を、完全に失った瞬間であっただろう。ほかでもない日本が議長国として主導して決めた議定書の内容に、どんなに納得感がなかろうと、「あの時は無理やり決められたんだ」と政府筋が駄々っ子のように言ってはいけない。カッコ悪すぎる。「ごめんなさい、うまく減らせませんでした。これからがんばります」って正直に言った方がまだましである。
当然ながら他国の人々から酷評されたこの削減案の恥ずかしさは、まず第1に基準年の勝手な変更をしたことにある。日本人はともかく、外国人はそれではだませない。実際、BBCの記者などはまず数字合わせをしたことに強く反応している。最初何を言ってるのかよく理解できなかったことは、05年基準で比較するとEUよりも「野心的」になるという説明だ。それは、90年から増えてしまった日本と比べ、すでに少し減らしてしまったEUは、90年比で20%減でも05年比にすると13%減にしかならないからだ。これはEUを本気で怒らせるには十分過ぎる粉飾だろう。
歴史を振り返ると「不利な条約を無理やり結ばされた」という神話づくりはこの社会のお家芸だ。皆でよってたかって優等生の省エネ国家日本をいじめようとしている、という被害妄想を広める役割を一般紙、とりわけ産経新聞は見事に演じてきた。興味深いのは社説を比較すると、読売と朝日がこの政府案をすんなりと受け止め、日経がやや厳しい見解を出したことである。ただし、日経新聞は他の記事で経済界の意見を代弁しているので、総体としては中立だろう。ところが地方紙はおしなべて批判的に受け止めている。まるで日本の中に南北問題が存在しているかのようだ。
環境省派と経済産業省派の専門家が積み上げた異なる数字のうち、経産省派が出したものが大本営発表用に選ばれ、削減するには負担金を払うんだぞ、という脅迫をついに国民にもかけてきた。沢山の税金がこういうくだらない計算をする人々に支払われ、財界も熱心にそれを支えている。
じつは日本には削減幅を増やすために、とても有利な点はたくさんある。1つは、すでに人口が減少しはじめていることだ。普通の国々は人口増の中での削減をしなくてはいけない。アメリカのように特に増加する人口を抱える国では、とりわけ大変である。それは極めて不利な点となるはずなのに、そんな理由を持ち出して「我が国は人口増加中なので削減幅を減らしたい」とか「国民1人あたりで計算することにしよう」という主張を展開する先進国はない。本気に数字で説得しようとするなら、反論される可能性をすべてつぶしてしっかり理論武装しなければ、ボコボコにされるだろう。(殴られても気づかない可能性があるけれど(泣))
けれど、そもそも後ろ向きな主張のしかたには国家主体としての責任感がみえなくなり、品位がないので誰もしない。だいたい「国益」のことは少なくとも表立っては誰も言わない。それなのに、政府(筋)は堂々と「日本はもともと省エネ国家なのだから、議定書は日本に不利」であり、「国益」にかなわない目標は持てないと言ってしまう。(正確には「省益」なのだが、、、。)
クールジャパンの時代は終焉した。一歩遅れて登場したマンガ総理が予算をつけた国立メディア芸術総合センターは、その墓標にふさわしい建物なのかもしれない。マンガの世界で通用する論理は、現代国家間のやりとりにはなかなか通用しないのである。

ケアラーの寂寥感と解放感

出先のホテルで、夜中なのに眠れずにブログを書いています。
ついに最後のケアする対象を失いました。先週、飼い鳥のセキセイインコがなくなったのです。前回のブログで退院の喜びをつづったのもつかの間、再入院とともに今回は退院できずに逝ってしまいました。愛するものを失った寂寥感とともに、私が得たものは解放感。人間を対象にすると必ず言葉を飾るテーマですが、ペットなら書くことを許してもらえるでしょう。
介護、あるいはケアをする存在でいることは辛いものです。気にかける対象は少なければ少ないほど人は煩わされません。そのためには特定の人と親密な関係を持たず、子どもなど持たなければいい。ましてペットなど飼うことは言語道断なのでしょう。ケアが必要なことはすべて予見されることなのですから。たとえ子どもたちにペットのいる生活を味あわせてあげたいという願望であっても。そういうものを切り捨てられなかったところが私という人間の生き方に現れた甘さです。もちろんそのことを誇りに思っていますが。
家族でたくさんの笑いと泣きを共有させてもらえました。昨年子どもが2人とも離家し、残ったペットの彼女には本当にお世話になった気がしています。家族の事情を小さな肩に背負って重荷に感じた1年だったのかもしれません。そのことが寿命を縮めてしまったのではないかとほんとうに申し訳なく思います。
ペットの介護に多大なお金と時間を使っている人が、世の中にはたくさんいます。私はその足下にも及びません。けれども、彼女が病気になればその間心配し、常に緊張していたのだと今になって気づきます。なぜなら、彼女の死後、私は悲しさとともに安心感を覚え、ああ、もう朝から晩まで彼女の様子を気にかけなくても大丈夫なんだと思いすっかり気が緩んだから。気が緩むと自分の体調が悪くなります。自分が病気になっても困らなさそうなとき、人は弱るのかもしれません。少なくとも、私はいつもそうですね。
ケアラーとして生きてしまうことは、辛いけれど幸せなことなのでしょう。十分に世話をしたという充実感が寂寥感をじきに超えてくれると信じて、一日一日を過ごしていくしかありませんね。そして、これからの半生でたくさん出会うだろう愛する人たちを失う寂寥感を、少しだけ前倒しで教えてくれた彼女に、心からの感謝を捧げます。


セキセイインコの入院

 新学期でただでさえ生活が落ち着かないところに、ペットの手乗りセキセイインコが体調を崩してしまい、動物のお医者さんに文字どおり命を助けていただきました。しばらく入院をしていたので、毎日面会に招集。(考えてみたら子どもたちは丈夫で入院したことがないような気が...。)小鳥は人間の子どもよりさらに弱い生き物ですので大変な気疲れをした気がします。先週退院して一週間、もう大丈夫そう。退院にそなえて29度に保てる箱を整備。退院後は糞の数を毎日数え様子を健康チェック表に詳細に記入。毎日2回投薬し触診。かなりキツイですよね。大変に飼い主に厳しいペット想いの先生でした。
 うちのインコはそろそろお年なのに、今年うまれて初めて卵などを宿してしまい(もちろんひとり身なので無精卵)、さしずめ高齢で初産、陣痛が弱く自力出産するのに苦労をして入院しなんとか出産をしたものの、予後が悪く回復に時間がかかった、というような状態でした。
 子どもは家を出ていないのに残されたペットのお世話に振り回されるとは、ため息がでてしまいますね。それにしても、お医者さんに通っていると病気の動物達は引きも切らず。ペットと共に生きている人ってたくさんいるんですよ。お医者さんとの会話が聞こえてくると、それぞれ種も違ううえに個性も違う。「この子はホントに小食ですねえ」「もう、気持ちだけでご飯がのどとおらなくなっちゃうんですよ」とか、性格を瞬時に把握して対応が実践的になされる。動物のお医者さんていうのは、本当にすごい職人芸だとあらためて感嘆しました。マニュアルが全く通用しない世界なので、個人の才覚が際立つのかもしれない。小鳥OKという病院は本当に少ないのだけれど幸い近くに名医がいてくれて本当によかった。人間の小児科のお医者さんもこのくらいの職人芸を発揮できる人にやってほしいものですね。
 そういえば一時期獣医志望だったこともある私。言葉を発することができない動物の感情を理解する力は結構あるほうかもなあ。人間の子どものほうが数段ラクに感じます。だって少し大きくなれば言葉を話してくれるんだから。ただし、あの動物の名医さんが、もし小鳥に向けた繊細な気遣いのままに子どもに接するお父さんだとしたら、ちょっと気を使いすぎで子どもにとっては少しめんどくさい親かもしれないな、などといらぬ心配をしてしまいました。
 ちなみに、ペットは飼い主に似る、これはかなり真実のようで、元の飼い主の娘に似ているらしいインコは、お医者さんに「この子の鼻の色はどう考えても男の子みたいにみえますねえ」といわれてしまったのでした。こんなに紛れもなく女の子であることを証明する病気だったのに。やれやれ。

懐かしい桜並木の孤独な散歩

今日はすこし風が強いぶん空が青く、桜が美しく映える天気だった。一年前に引っ越してきたときにはもう桜は終わっていたから、子どもの頃に毎日飼い犬と散歩に通った川沿いの桜並木を見るのは今年がはじめてだ。風景が大きく変わっているからか、数十年ぶりなのに郷愁はあまり感じられないのが不思議である。
この季節、大学の非常勤講師にとっては、長期の休みの後のシーズン開幕前で、なんとなく鬱々とした気分が抜けないのが常である。桜の開花とともに杉の花は時期を終えたとみえて、花粉症は消えてくれたのに、どうもさわやかな気分になりきれていない。今年はどうにもご時世が明るくはないから余計だろうか。
それでふっと気づいた。この地に来て一年になるのに私には所属する集団がひとつもない。物心ついて以来こういう状態であった経験はないように思う。いわゆる不安定な非正規雇用の人にはありがちなことだが、ほんの数時間講義をして帰る大学非常勤講師は並外れて孤独な職業である。小さい大学で10年くらい通ったところでは、馴染みの受付の方と親しくしゃべることもあって、同僚といえるような関係もあったけれど、そういう場に出あうことはむしろめずらしい。
引っ越してくる前も職業の状況に変わりはなかったが、地域で様々な集団に属していた。子ども関係のものも多かったけれど、自分のフットサル仲間もあったし、さして努力しなくても、古典的社会学者ジンメルが描いたように、網の目のように広がる社交空間のなかで、私という個人の人格は支えられていた。子どもと職場もなく転居すれば、いとも簡単にこれらは失われる。しかもここは私が子ども時代を過ごした地元である。適度に都会のこの空間では、みな転居し知りあいなどほとんど残っていない。
日本という社会には、様々な人が気軽に出入りをする社交空間がなかなかない。人を家に呼んで集まることも稀である。自分ではわりと呼ぶほうだと思うが、他の人がやっているのはあまり見聞きしない。皆忙しくそれぞれの生活があって、手いっぱいなのだから当然である。だから、子どもも職場もない大人が移動してきたとして、地域で人と知りあう機会は相当の努力してつくらないとできない。
かなり社交的な私でさえ簡単にこうなるのだから、孤独感や生きづらさを抱える人が多いのも、身にしみて理解できる。日本には西洋的な言葉の意味合いを持つ社会(ソサエティ=社交)がどこにもないんじゃないか、とつくづく感じる。人々がその代わりに密に閉じこもろうとしている親族という集団も、あらゆるところで綻びを露呈している。そんな時代に、どうやったらこの地で適度に開かれた社交空間なるものに出会うことができるのか、創ることができるのか、まだ思案する日々が続きそうである。とはいえ、夢想にふける物書きとして生きるなら、この孤独な空間は有り難く与えられたものと感謝するべきなのだろう。

低炭素社会シナリオのジェンダー観

 2050年に日本は70%の二酸化炭素を削減することができる、という。私もそうしたいと願っているし常々どうしたらいいのか考えてもいる。尊敬する西岡秀三氏が編集し、気鋭の学者たちがまとめた日本社会の将来像に期待を持って読んだ。
 残念ながらとても落胆している。こんなに劇的に変化する未来社会のシナリオを描きながら、そのジェンダー不平等ぶりは永遠につづくかのように不変だったからである。
 地球温暖化がすすんで世界が壊滅的に被害を受けるのと、被害は受けないがジェンダー不平等な社会が永続するのとどちらかを選ばなくてはいけない、ともし言われたら、私は迷うのかもしれない。2050年になっても女性達が家事の大半を担った上で、仕事も増やして男性より長時間(総)労働に従事しつづけるような70%炭素削減社会には魅力を感じない。次世代の社会シナリオは人が性別や年齢、出自により差別されないという至極あたりまえの民主社会の実現とともに描かれてほしかった。
 環境学者たちの生活に対する知識や想像力が、あまり豊かでなかったのが残念だ。そして私がそこに何も提言できなかったことも少し情けない。ライフスタイルの変革を読み込むならば、いま始まっているそのほかの社会生活変化における萌芽を取り込んでもらいたかった。思想に鋭敏でないシナリオ研究は、どれだけ緻密にデータを積み上げて実証されたものであっても、未来社会へ向けて人々の心を動かすことはできないだろう。